公益質屋跡

最終更新日 2023年8月5日

1912年(昭和2年)から公益質屋法にらより利益を目的としないで低取得者を助けるために低利率で質を行っていた質屋です。
当時は高利に悩まされていた人達がよく公益質屋を利用していましたが、質屋自体の変化により利用する人が激減し、2000年に廃止となりました。

この公益質屋の建物が歴史的に価値のあるものになっているのが、伊江島にある公益質屋跡です。
ここは、第二次世界大戦でアメリカ軍の攻撃を受け島全体といっていいほど焼き払われました。

その中で原型をとどめていたのがこの公益質屋の建物でした。
この公益質屋は1929年に政府によって建てられました。
この時代の伊江島は貧しく生活も苦しいうえに生活資金を借りるための質屋が高利貸しだったので島民を助ける福祉施設として完成しました。

1945年にこの伊江島で太平洋戦争で最後の陸上戦がおこなわれました。
この伊江島には当時、東洋一といわれていた飛行場がありました。
ここを占領しようとしたアメリカ軍の第77師団と伊江島を死守するための日本軍の井川隊との激しい戦闘がありました。

ここの戦闘では軍とともに島の住民も戦いに参加していました。
この第77師団のブルース少将は「沖縄攻撃作戦の中で、沖縄のどこよりも伊江島の住民は勇敢に戦ったところはない」といわれるほど激しい戦闘でした。

国民学校がある高地や女山(ヤプスンジ)あたりに日本軍は最強の布陣を引きました。
この女山のあたりをアメリカ軍はBloody Ridge(血塗られた丘)と呼んでいます。
この公益質屋は学校の高地と女山の間にあります。

ここは最後の3日間で最も激しい戦闘が繰り広げられました。
伊江島での損害の大部分はこの3日間だといわれています。
公益質屋の建物は伊江島に上陸したアメリカ軍が攻めてくる方向にありました。

この公益質屋の建物は当時にしては珍しくコンクリート製の建物で質物の保管の為に強固に作ったので残ることができました。
この戦闘で亡くなった日本人の大半は島の住民でした。

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